昭和五十七年五月十六日 朝の御理解
御理解第九十節
「上から下へ水を流すのは容易いが、下から上へ流すのは難しい。道を開く、と云うても匹夫の俗人から開くのぢゃから難しゅうて暇が要る。神のおかげで開かせて貰ふのでたとへ一時は難しい事があっても辛抱して行く間には徳が受けられる」
昨夜は富久信会でございましたから、本当に皆さんの日々合楽理念の実験実証の様子を、それぞれに聞かせて頂きましたが、どういう事か日頃遠隔地の人ばっかりのような感じになってまいりましてね。
宮崎から三名、伊万里から三、四名見えとったでしょうか、それから壱岐から御夫婦でしょうか、橋口さんと云う方が、毎月一日と十五日の富久信会だけには必ず参拝をなさっとられます。
皆さん、こうして朝の御参拝なさってられる中にも、御商売なさっとられる方は沢山おられますから、その方達はおかげを受け取られるのであろうか、それで、もうよいのであろうか、と思う位に富久信会には少ないですね。
だから、会長である佐田さんに近所の、御信心をして御商売なさる方達も、こんなに素晴らしい会なのですから少し富久信会に出られるように頑張って下さい、と申しました事でした。
やはり各自の皆さんのお話しを聞きながら思うんですけども、本気で合楽理念に取り組んでおられますですね。
ですから、必ずそこには実験実証が生まれておるんです。
失敗しながらでも、やはり取り組んでおられるですね。
例えば、昨日、壱岐の食堂をなさっておられる橋口さんの発表を聞かせて頂いたんですけども。
月々頂く御教えを、そのままその月からその次の御参拝まで心にかけ通しにかけていかれる。と云う。
先月の富久信会の時に、兎に角、人に好かれる人。人に愛される人。神様の好かれる、と云う事も愛されると云う事も、やはりまず人に好かれる人にならねば、と云ったような御理解を頂いた。と云っとられましたが、本気で御商売もなさるのですから、お客さんに好かれ愛されなければ商売は発展しません。
所が最近変わって来た事は、客筋が大変良くなったと云う事を発表しとられます。
自分自身が神様に愛される私になろう。
神様に好かれる私になろうと心がけ清浄していくうちに、自分自身の本心の玉も研がれていくでしょうし、人柄も変わっていくでしょうね。
そこにはね、客筋が変わる、と云う働きが生まれて来ておるのです。
私は、これは絶対なものだと思うですね。
御商売をさして頂いて、客筋が良いの悪いの、従業員に恵まれないの、と云うのは結局、そこの社長さんであったり、店長であったりするその人の人柄、その人の信心による。と思うです。
本気で改まらなければいけない、と思うですね。
そしてそういう心で合楽理念に基づく生き方を身に付けていく。 昨日、最後に正義先生が発表しとりましたが、色々な発表の中に昨日の朝の御理解の中に、親先生が神様と心中してもよい。と云うような表現をなさったがね。私自身も神様を奉斎させて頂く時に奉斎のお祭りに親先生を御迎えして、親先生を隣どおし座らせて頂いて神様にお伴して行きながら、この神様と、この親先生とならば、心中してもよい。と私はその時に実感しました。と云う話しをしておりますですね。
信心信心のお参りの時にかかっておった柱がけを見られたんですね、死ぬまいと思う心が疲れる。いわゆる軍人さんで奉文さんの参謀で助かられたのは、この方だけだったそうですね。
他は全員処刑されなさったんですけども、この方は軍の参謀だったそうで、合楽に参って見える時でも、憲兵が着いて来よりました。 と云うような方でしたが、兎に角、奉文さんの武人としての素晴らしさにいつも傾倒しとられた、と云う事です。
天津の市街戦なんかの時には、どこから玉がくるやら分からないのに、それこそ馬上豊かに頭を下げられなかった、と云うのですから大変な度胸の方であったでしょうねえ。
そういう方に着いておられたのですから、その御教えがですね。死ぬる、と云う事なんか奉文の武人で云うならば、天皇陛下に捧げきっておられたと云う感じですね。
その御教えが心に響いたんですね。
兎に角、助かりたい助かりたいの事ばっかりの所から、死ぬまいと思う心が疲れるのです。
夫婦ともおかげを頂かれて、久留米の自衛隊の副隊長をなさり、神戸の陸、海、空の中の部隊長として行かれまして、その後消息を聞きませんから、どういう事になられたかは知りませんけれども、その教えが栗屋さんを助けた、と云う事になります。
それもやはり、実際見たり、聞いたり、本当の場に、その戦地で当たっておられたので、悟りが早かった訳です。
ほんに、助かりたい助かりたいばっかりだった病気になり、死ぬまい、と思う心が、そういう一心発起が出来られて熱心に参って見えました。
だから、そういうような心を私共が育てていく、と云う事は、いよいよ合楽理念の実験実証さして頂いてるうちに、この神様とならば、この親先生とならば心中してもよい。と云う思いで車の中で感動して、御神様をお伴した事を思い出した、という話を昨日はしとりましたね。
ですから、例え一時は難しい事があっても。と云うその難しい所が、只難しいだけでは、おかげにならんですね。
そこに神愛を悟り、これによっていよいよ力を受けるんだ、と云う時に初めて、その辛抱こそ、身に徳を受ける修行と云う事になるのです。
皆さん合楽におかげを頂かれたらね。
合楽理念の実験実証を本気でさして頂いて、商売であるならば、客筋が変わる位なおかげを早く頂いてもらいたい、と思うですね。 これは、下から上に水ぢゃなく、上から下に水を流すように、そういう意味でのおかげからスムーズに流れてくる、と云う話が昨日の殆どの方のお話しでした。
合楽理念に基づけばおかげが受けられる、と云うお話しでしたね。 それでもそこに、大変難しい事、難儀な事に遭いましてもですね。信心が、その頃には白熱化しておる。
この神様となら心中してもよい。と云うのですから、もうそこには憂えがないね。ヘトヘトがないね。
例えばヘトヘトがあっても、そのヘトヘトの底には、本当に神様相すみません。有り難うございます。あなたにまで御苦労かけてすいません。と云ったようなものがね、心の底から湧いてくるんですね。
ですから、通りにくい所も有難く通れるんですね。
そういう時に辛抱が出来る。辛抱の徳が受けられる。と教えておられます。
只、苦しい所を、只、通り抜いただけ。
どうぞおかげ頂きたい、おかげ頂きたい、ばっかりの信心では、絶対お徳は受けられないです。
その辛抱を普通では出来ないのだけども、神様のおかげを頂いて信心のおかげを頂いておるから、此処が通り抜けられるんだ。信心頂いとる、と云う事が有難い、と云う事になってこなければね。お徳にはなれません。
只、歯を食いしばって辛抱しただけでは、お徳にはならない。
その辛抱こそ、徳を受ける、と云うのはね。
信心が白熱化ね。
この神様とならば、いやそれこそ神様の御言葉ではないけれど、船もろとも、と云う気になっておらなければ出来る事ぢゃないね。 神様も私共まかせになって下さる事の為にはです。
私共がまずは、神様まかせ。それこそ身も心もあなたにおまかせします。と云うような、信心が白熱化してこなければ出来ませんね。 本当の信心の喜びが湧いてくるおかげの中でなからなければ、そういうお徳を受ける心の状態と云うものは、頂けないと思う。
昨日は、あちら岡山でしょうかね。
此処に何回か見えた方がありますお教会の御信者さん方が、四名参られまして、お参りしてくるたんびに、お願いをしておかげを頂くのです。
電話でお取次を頂いてもおかげを頂くのです。
昨日は御礼参拝でございましたが、その中の一人が、お届けさしてもろう時に、「火事があっとるのに、その風下にある家が、今にも燃え移ろうと云うような状態」を頂いてから、その火事の向きが変わってしまった、と云うような情景を頂いたんです。
ですからね、例えば、お願いをしたら風向きが変わる位なおかげを受けられるですね。
天地が自由になる、と云う神様ですからね。
そういうおかげを頂いてもです。それを受ける心が無かったら、おかげにならんです。
お取次頂いたら、そのお取次の働きと云うのは、絶対のものなんだね。
その絶対なものを受ける為には、絶対な心がいるんです。
絶対の心とは、あなたにおまかせしました。それぞれの心もまかせました。もう、あなたとならば心中しても構いません。と云うような心の状態が開けてきて、その天地、風向きが変わる程の働きにもおかげにもなってくるのですからね。
合楽理念の実験実証でもって、そこに神様の働きを分かるようになり感じるようになり、段々とより深い所に信心が入っていく。
合楽理念の実験実証を全然してない。
合楽理念と云うのは、神様の心を心とする。と云う事でしょうが、神様の心とは反対の事ばっかり思ったり、云うたり、したりしておったんでは、いつまでたってもね。
どんな素晴らしい神風が吹いてきても、その神風を頂き止める事が出来んですね。
昨日の富久信会の中からの皆さんのお話しの中から色々思わせて頂いたんですけれども、今の橋口さんのね、海を渡って来てからの事ですが、一月に二回でもやはり一心を立てなければ、とても出来ない、と思います。
これだけは、もう絶対なものとしていかれる、と云うだけではなくて、毎日日参りしよります、と云うだけではなくてですね。
その教えに本気で取り組んでいきよる所にね、人に好かれる、神様に愛される私になろう、と云う精進。そこから不思議と客筋が変わってしまうような働きにもなってくるんですね。
だから、そういうおかげは私、合楽理念の実験実証を、それこそ簡単です、明瞭です、と云うようなおかげですからね。
そこん所を行ずる、と云う事以外にないね。
それは明瞭ですね。
これはもう限りがありませんから、それを明瞭にしていく、と云う事は、いよいよ深めていく、広めていく、と云う事においては、限りがありません。
そこには限りない精進、その精進過程においてですね、信心しておって、どうしてこのような、と云うような事もありましょうけれどもね。
そこの受け所が、日頃の信心がね、神様と心中してもよい、船もろとも、と死ぬまいと思う心が疲れる、とこう云われるね。
只、助かりたい。おかげ頂きたい。と云うだけの信心からね。船もろとも。と云うような心の状態が開けてくるような信心を身につけていきたいですね。
「どうぞ」